My Life as a Dogー年齢を不作為の口実にする自分が嫌い
飼い犬の柴犬はもう12歳。人間なら70歳以上だ。
幸い元気で、日本固有犬種で、風土にあっているのか病気知らずだ。
冬は雪の中を元気に走り回る。靴も服も着ない。
心配なのはむしろ夏だ。野生の頃は標高の高い、涼しい山を駆け回っていたのだろう。さすがにこの高温多湿は耐えられまい。あるいは、地球温暖化のせいか?
一度、8月の暑い日に車に待たせて30分ほど買い物をしたことがある。
そのスーパーの最上階の駐車場は屋根がないが、ひとつ下の階は屋根でおおわれているので直射日光が差し込むわけではないから大丈夫、と都合よく考えて自分の買い物の必要性を優先させてしまった。
戻ってくると元気がなくぐったり。沢山水を飲ませ、たまたま近くに見つけた動物病院に駆け込んだ。元気を取り戻してくれ、獣医師に大丈夫ですよと言われて、本当にほっとした。
悪かった、ゴメン。
夏はこの犬のためにエアコンはつけっぱなしである。コロナ前は自分が何時間も外出している時は「もったいないな」とも思ったが、あの毛皮である。着ぐるみを着せられて、ハンディファンもなく、しかも汗腺がないので汗も出ない、体温調節ができない。アッつ!
コロナで飼い主の自分がずっと家にいるので、一緒に涼しい思いをしている。
梅雨も明け、これからは朝の散歩はできるだけ早く、そして夜は日が暮れてから。自分も照りつける日差しの中の散歩は辛いが、ワンコはもっと辛い。
こうやって可愛がっているが、ふと思い出すのは40年以上前、実家の新興住宅地で悪ガキどもに虐められていたワンコのことである。
黒っぽいメスの野良犬だった。
小型の犬だったので、いじめっ子には格好のなぐさみ相手だった。石を投げたり、追いかけまわしたりしていた。
いつの間にか妊娠して、空き家の床下で何匹か出産したらしい。
鳴き声は聞こえるが何匹子犬がいるのかわからず、いじめっ子たちの各家庭で、親から野良犬がこれ以上増えると嫌だ、という会話を聞かされていたのかも知れない。新興住宅地なので、原っぱも結構あった。野良犬が狂犬病の注射を打つこともなく徒党を組んで跋扈しはじめたら、やっぱり厄介ではある。
この母犬が床下に出はいりする穴があった。子育ての為に自分も体力が必要で、エサを探しに出てき、また乳をやりに戻っていたようだ。
いじめっ子たちはこの穴を塞いでしまったのだ。トンネルのような穴を掘れば脱出できたかもしれない。
が、母犬は力尽きたようだ。当然、子犬たちも。
いじめっ子の家庭では、野良犬を駆除できたと喜んでいたのかも知れない。
自分も可愛そうだな、と思う一方、何となくほっとしたような気にもなった。
たまにではあるが、巣穴からでてきては悪ガキに虐められる母犬を見るのは辛かった。もうそんな姿を見なくてすむ。
が、人間が犬の親子を餓死させたのだ。誰に教えられるのでもなく、生んだ子犬をなめて、懸命に育てようとした。母犬と子犬たちのどちらが先に命尽きたのだろうか?
暑い日の散歩から冷房の効いた家に戻り、ハアハアと息を弾ませているワンコの身体を拭きながら、「あのかわいそうなワンコの分も可愛がってあげるからね。」とつぶやく時がある。人間の愛情を知らずに餓死させられた親子を申し訳なく思い出し、一度も抱きしめられたことがなかった彼らの代わりにうちの老犬を撫でてやる。
My Life as a Dogという題名のスエーデン映画があった。母親にも兄にも大事にされなかった幸薄い男の子の話だ。
今でこそスエーデンは所得水準も高く、文明的と言われる国だが、映画の時代設定は1950年代。まだまだ貧しく、余裕もなかったのだろう。
凌辱されて子を産まされ、家の恥だと石を投げられて殺される女性が世界中にはまだ沢山いる。40年以上前のあの母犬と同じ人生だ。
人生の第三コーナーをゆっくり歩いている自分は、代わりにあの犬の親子の分もと思い自分のワンコを抱くだけだ。年齢を何もしない口実にする自分をズルい、と思う。
(以上)