人生の第三コーナーの衣食住

ライフスタイルブログ:インテリア、家のメンテ、ソーイング、失敗続きのパン作りなどをつづっていきます

夏井いつき先生に学ぶ

ふと見つけたスマホニュースが、今日の「徹子の部屋」のゲストは俳人夏井いつきさん、と伝えていた。ランチを食べている時で12時過ぎ。午後1時の番組の始まりに間に合うよう、レストランから懸命に自転車を漕いで帰った。

 

TBS木曜7時からのTV番組「プレバト」は夏井先生の部分だけ見る

「プレバト」には料理、絵画、絵日記、生け花等々の科目があるが、夏井先生の俳句部分は秀逸だ。

先生のコメント、「直し」はとにかく論理的で説得力がある。なるほど、と思わせる理由を言語で伝える力量は、中学校の国語教師であったことから来ているのだろうか?

できの悪い作品を添削して見違えるように改善する力量も凄いが、それをプロの芸能人である梅沢富美男さんとの丁々発止のやり取りで、面白おかしく見せ場を作る能力は圧巻である。

誰かが筋書を書き、演出しているのだろうが、専門分野の講師のインプットがなければ成立しない番組だ。絵画、書道等他の科目が俳句ほど面白くならないのは、それぞれの講師の専門分野における能力が劣るのではなく、夏井先生のタレント性が抜きんでているからだろう。

 

日本語が非論理的、なんて嘘である

よく西洋の言語に比べて、日本語は論理的でないと言う人がいる。日本人自身が、である。主語がない、最後まで聞かないと(読まないと)肯定しているのか否定しているのかわからない等々。

日本語が非論理的なのではない。その言語を使っている(話す、書く)人が非論理的なだけである。夏井先生のテレビでのコメントを文章に起こせば、いかに日本語が理路整然としているかが明白になるはずだ。

 

仕事で英語を使う機会では、相手の言っていることがよくわからないことがあった。若いころは自分の英語力を責めたが、そのうちこの英語の使い手が論理的でないから話の流れについていけないのだ、ということに気づいた。

 

「白熱教室」のマイケル・サンデル教授の英語を聴いて、その論理的な展開に舌を巻いた。それと同じだけの説得力が夏井先生の日本語にはあるのだ。しかも梅沢富美男、東国原秀夫、司会のダウンタウン浜田雅功相手に、夏井先生は作品の講評をお笑いにも仕上げてしまうのである。TBSは凄いタレントを見出したものだ。

 

何気ない日常を俳句にする

黒柳徹子さん相手に、俳句の面白さを述べておられたが、何でもない日常を作品にし、繰り返して行けばある程度まで技術は向上するとのこと。

何の変哲もない日常を俳句にするにはそれなりの感性が必要だと思う。先生はよく番組で「映像」という言葉を使っておられるが、同じ場面を見てもそれぞれの感じ方は異なる。何も感じない、感じても俳句にはできない、映像化もできない、という人もいる。

何かを感じるのは「感性」。それを読み手の想像力もかき立てるような映像にするのは「技量」。更に感動を呼び、人々の記憶に残るようなものにするには「才能」も必要なのだろう。

 

大御所過ぎる句が浮かんだ。

五月雨を 集めて速し 最上川

痩せガエル 負けるな一茶 ここにあり

 

短歌にも心に残るものがある。

函館の青柳町こそ悲しけれ、友の恋歌矢車の花

万智ちゃんを 先生と呼ぶ子らがいて 神奈川県立橋本高校

 

そうだ、俵万智さんも高校の国語教師だったのだ。「国語」=日本語への愛着もハンパではないから、日本語を専攻して職業にまでしたのだ。

母国語だから誰でも苦労せずに話せる、使える、という訳ではない。日常使う言語だからこそ、言葉の「意味」だけでなく、夏井先生が強調されておられる「音」「響き」にも神経を研ぎ澄ませる必要があるのだ。

英語を話すからと言って、誰でも英語教師になれるわけではない、のと同じだ。いい加減な英語ネイティブに高い授業料を払っている同胞には声を大にして言いたい。

 

エッセイ、ブログで修業しよう

ブログ、ブロガーと言う言葉が一般的になり、「エッセイスト」という言葉は聞かなくなった。出版社に頼らなくても、ネットで自分のエッセイを発信できる時代になったからだろう。

私は俳句を作ったことがない。こうして、日常思いついたことを、長くはない文章=エッセイにするのは好きだ。夏井先生が俳句もコツコツ詠んでいくことによって、ある程度のレベルに達すると言われているように、素人の日記もコツコツ書いて行けば、それなりに磨かれていくものと期待しよう。

 

まずは、何気ない日常を切り取り、文章にすることを繰り返していく。

徹子の部屋」は昼食の後片付けをしながら聞くものだと思っていたが、今日はばっちり夏井先生の言うことを学びにすべく、30分間テレビの前にかぶりついていた。

ありがとうございました!